mado

#9

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びっくりするほど何も書かないまま時間ばかりが過ぎ、冬が終わり春までも終わろうとしている。

 

新たなステップに足をかけ、さて次のステップはどうしようと考えているうちに、それをすぐに見つけられないもどかしさと苛立ちが自分を苦しめ続けていた。なぜ次が見えないのかも分からず、「とにかく目の前の事を頑張る」というありきたりな言い訳で、根本的な事から目をそらし続けていた。だからいつまでたっても、次のステップは見つからず、時間が経っていった。

 

そしてつい8分前に、答えではないのかもしれないが、少し鍵が見えた。

 

次のステップは見えないし、自分がどういう形で理想に(そもそも理想すら決まってないけども)近づけたいのかというのもわからないけど、とりあえず心の赴くままに進んでみよう、と。

 

ここでいう「心の赴く」というのは、場所に関しても付き合う人間に関してもそうである。

 

「こうなるためにはここに行かなくては」という、理想を見つけてから逆算型で生きてきた私には、先を見通したり計画をたてて進み、且つその理想を実現するという点においては他人より少しばかり長けていたのかもしれない。理想のためならば我慢もできる。そういうタイプだった。

 

しかし、その理想が見えなくなった途端、また理想が達成された瞬間、私は止まってしまう。ここ最近ずっとその状態だったのだ。

 

だからここで視点を変えてみた。逆算型から、積み重ね型に変えてみるのだ。

 

「今」やりたいこと。

 

「今」会いたい人。

 

「今」行きたい場所。

 

これを積み重ねていって、自分のライフを創っていく。

 

今までの自分には経験のない生き方だけれども、きっと役に立つしうまくいく。はず。

#8

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11月の初日から盛大に体調を崩し、今月に入ってまともな自分の声を聞かないまま、早10日が過ぎた。はじめの3日までは無理を押して働いたり遊びの用事にもなんとか出かけていたのだが、4日目の帰りにしんどすぎて死ぬんじゃないかと感じる瞬間が何度かあって、次の日休んだとたん一気に悪化した。気を緩めたら崩れるってこういうことか~と思いながら毎日布団に包まる生活が始まった。

 

頑張れば動けたかもしれない(...いや全く声が出ないのにどうやって働いてどうやって遊ぶんや)けど、2か月以上、1か月以上前から約束していた遊びも断った。ものすごく申し訳なかったし悲しかったけど、ここまで真剣に自分の健康を第一優先に考えたのはなかなか久しぶり...というか、しょっちゅう体を壊すくせに今までそれをした記憶があまりない。笑 もう子どもじゃないんだから、いい加減それくらい自分で管理しなきゃいけない。自分の管理は一人の人間として生きていく責任だもんなあと思いながら、今月に入って一度も手を付けていない卒論のファイルを横目に、寝直す日々だった。

 

それと、今回は併発した副鼻腔炎(しかも発見した時にはかなり重症化していた)のおかげで顔面が痛くて眠れないという事がおこった。もうほんとに痛くて辛くて、ロキソニン(痛み止め)がないと涙が出てくるレベルで、最終的にはどこが痛いのか分からなくなる始末だった。笑

 

普段よくしゃべる私が声を出せない生活を強いられても、今回は割と寂しくなかった。それはLINEのおかげだと思う。全く声を出していないのに、出しているように意思を伝えることができる。メッセージを受け取った相手も、頭の中で私の声で再生してくれるから、話をしているような感じが出る。グッジョブLINE。万歳LINE。

 

薬が効いて、寝るのにも飽きて、でも話す人もLINEする事もないなあ~という時には、YouTubeでいろんな動画を見まくって、それにも飽きたら自分のTwitterを遡ったりカメラロールを遡って記憶を巡らせていた。(基本私は記憶を蘇らせるという行為が好きなのかもしれない。前も記憶に関しての記事を書いてたしね。)1年前こうだったなあとか2年前こうだったなあとか、変わっちゃったなあとか変わらないなあとか、考えただけでも割と楽しい。

 

他人と話さなかった分、いつも以上に自分と話したような気分になった。気分だけかもしれないけど。

 

#7

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期待外れだけは、いつになっても慣れることはない。腹が立つし、やる気が一気になくなる。

 

その期待外れをしたくないという気持ちから、「そもそも他人に期待をすべきではない」とか「私は他人をあてにしないようにしている」という言葉を、それはそれは何度も耳にしてきた。そういう言葉を聞くたびに、さぞ自分に自信がおありなんだろうな~と思う。私は自分に自信がないところからスタートした人間なので、そうサラッと言える人はすごいなと思う次第だ。確かに、この年くらいまでになると(ゆうてまだ21やけど)自分でやらなきゃいけない事の方が多いし、常に他人をあてにして行動していたら甚だ迷惑だ。でも、少しばかりの期待とか希望を持って人に接してもバチは当たらないんじゃないかなと思う。自分もきっと知らないうちに(知っている例ももちろんあるけど)人の期待は裏切ってるはずだし。

 

だからなのかもしれないが、「この人は大丈夫だな」と信頼してた人に期待外れな行動をされるとかなり落ち込むし長時間イライラする。(実際今がそう。笑 だから書いてるんやけど。笑)私の言い方が悪かったとか、その“期待外れアクション”の原因がもし私にあるのなら、悪かったと思うしイライラなんてあっという間に消え失せるのに、とかいろいろ考える。結局分からないんやからずっとイライラしてもしょうがないんやけど。今日のサザエさんでも波平さんがそう言ってた。笑

 

何歳になったら、この「信じる」「信じない」の境目が分かるようになるんやろう。私はいつになってもアホみたいに信じてがっかりするタイプであるような気もしなくもないけれど。笑 人を信じられないって方が苦しいし寂しいのも知っているから、できたら信じられる大人でいたいけど、ほいほい信じてしまうのもちょっと頭が悪い。何事もバランスだけど、いざやるとなると難しい。

 

今回の期待外れはまあ頑張って乗り越えるとして、これから私はどのような歩き方をすればよいのかなあと思いながら、今日は台風の中帰宅しましたとさ。(びっしょびしょになりながら)

#6

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恐ろしいほど思考が整わない。こんなんじゃ卒論も書けないし、他のやりたいことにも頭が回らない。ほんとに困った。

 

最近#metooというハッシュタグが流行している。(ご存知ない方はお手数ですがask google please.)実は私もこの活動(というか、投稿)に参加できる立場にあるが、どうもその気になれない。このハッシュタグを否定しているのではないし、寧ろ声を上げていく方々全員に(私の友人も悲しい事ながらme tooと言っていた。本当に悲しい。)、心の底からありがとうの気持ちでいっぱいだ。でも、それでも、私はどうしてもme tooと言う事ができない。600人近くになる自分のFBの友達の前で、高校生の時から投稿しているinstagramフォロワーの前で、me tooと言おうとして何度もその5文字を消している。

 

もう7年も前の話だし、大切な人の前ではちゃんと話すこともできるようになった。あの時声を上げていれば、もしかしたら別に同じ目に遭っていた人が悲しい思いをしなくて済んだかもしれない。別にわたしが悪いんじゃない。私は一人じゃないし、味方もたくさんいる。ちゃんとわかっている。何度も自分に言い聞かせているし、もう悲しくもないし、恐れてもいない。でもなぜこの5文字が打てないのだろう、と今日帰りながらずっと考えていた。

 

私の結論はこうだ。今me tooと言ったところで、本人に復讐できるわけでもないし、新たなアホな人の人数を減らすわけでもない。当の本人はきっと悪いことをしたとも思ってないだろうし、する人はする。すごく冷たい言いぐさではあるが、一人の経験者として、正直な気持ちだ。新たに私と同じ思いをする人が増えればいいなんて、これっぽっちも思っていない。本当に、心の底から誰もこんな経験してほしくない。痛いし、悲しい。そして、なんだかんだ記憶に残る。忘れようとしても、強くなろうとしても、記憶はいつまでも追ってくるし、もしかしたらもう一度起こるかもという気持ちはぬぐえない。こうなっている自分に、ああまだ私は弱いなと思わせる理由にもなる。私だって好きでなってるわけじゃない。

 

me tooのハッシュタグは、賛同する。自分が知らなかった友人も同じ経験をしているんだという気持ちが、前を向くきっかけになるかもしれない。自分が悪いんだ、自分は汚れたと思っていた人(昔の私のように)が、あなたは悪くないと言ってもらえるきっかけにもなる。これは、SNSの強みだと思う。

 

ただ、私は今言えない。私がまだ弱いだけなのかもしれないし、臆病なだけかもしれない。でもいまここで、こっそりとなら言える。どこかの誰かには、届くかもしれない。

 

Me too.

#5

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 今日は特別に何もしていないから、せめて何か生産性のあることをやろうと思ってここで文字を打つ。ここで書くことが特別な何かを生み出すとは思わんけど、何もせずにごろごろするよりかはマシかと思って。

 

記憶を呼び起こすものは、いろいろある。音楽、匂い、言葉、などなど。今聴いているShawn MendesのStitchesは、留学中に住んでいたアパートの景色を呼び起こす。星野源のWeekendを聴くと、必ず海士町の菱浦に向かうバスから見た景色を思い出す。そんな調子で、当時は何かを記憶しているつもりはなくても、時間がたってから記憶として急に情景が戻って来るのは、悪くない。なんというか、メモリー使用量は食ってないのにちゃんと記憶されてるというか。記憶の中だけでその場所に行けたような。その音楽、匂い、言葉がどこでもドア的な存在。でかした私の脳、って気持ちになる。きっと私だけやろうけど。笑

 

これから私はいろんなことを知らないうちに記憶する。嫌なことも嬉しいことも。こんな誰も見てないところにつらつらと書いていくようなことも、きっと立派な記憶のうちなんやろうな。

 

 

それをやることの意味はなんですか。

この質問されることが多くなった。私のやりたいこととか興味あることが本当にくだらないことなのかもしれないけれど、定型文のようなこの質問が一番やる気を削がれる。この質問に答えられないくらいだったら実現できないっていうのは百も承知なんだけど、なんとなく、「そんなもんやる意味ねぇよ」って言われているように、毎回聞こえる。この世の中には意味ないもので溢れてんだろって言ってやりたくなるんだけど、そんな言葉さえ言う気が失せる。やりたいことの意味。そういう人との話は、具体的にこういう数値でこんないい事が起こりますよって言えないと、やりたいことも話せないのかよって思う。まずいい事を数値化するってなんやねん。そんなもんやってみんと分からんやろ。...まあ現実見ろって教えてくれてるんだけど。(批判したいのか擁護したいのか分からんな、この書き方。笑)

 

 

残念ながら、あなたはクリエイターではないね。どっちかというと、壊していく方に長けている。

本当に私はクリエイトできないのか。確かに不器用だし、突拍子もない事を思いつくタイプでもない。でもその言葉が、私をクリエイターというものから遠ざけているし、クリエイターがいい者で、それ以外はそうでもないみたいな感じがした。少し腹は立つけど、かまわない。世の中クリエイターだらけじゃ困ることもあるだろう。私はいい意味でぶっ壊していく人間になろう。負け惜しみ?なんとでも言いやがれ。笑

 

 

言葉っていうものは恐ろしい。景色とは違って、きっかけナシに自分の中で勝手に何度も再生される。1度聞いただけなのに、99回脳内で再生して、100回言われた気になる。(ちょっとオーバーではあるけど。笑)この記憶達と共に私は生きていく。腹が立つこともあるけど、きっといい記憶はこれからも増えていくはず。

#4 隠岐の杉

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隠岐に行ってきた。そんな胸を張るほど旅に出たこともないけど、ここは私が一番好きな旅先だ。去年訪れてから1年間ずっと戻りたいと思い続けていたし、今年行って帰ってきた今もまた行きたいと思っている。そこに住む人に会いたいという気持ちもあるし、何より私は隠岐の景色が大好きなのだ。海でも山でも、去年見た景色とはまた違った顔が見ることができる。まあ自然なんやからそりゃ当たり前やろって話なんやけども。ただ何となく、隠岐の自然は荒い気がしている。周りの海も日本海だし、山に生えている植物も住んでいる生き物も、人間に愛想も容赦もない感じがする。そのぶっきらぼうさと荒々しさが、他で見た自然と違う。また、それらの恩恵に与りながら、でも特別注意を払っているわけでもなく、でもこの環境は特別なんだと知りながら生きている人と時間を過ごすのは面白い。都会では、経験できないことである。また面白いことに、去年の私がこの良さを求めて隠岐に来たわけでもないし、去年隠岐に訪れるまではこの良さが存在することさえ知らなかった。

 

隠岐には全部で4つ島があって、去年滞在していたのは海士町というところ。海士町観光協会インターンに参加し、2週間の滞在だった。

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これは海士町で知り合った漁師さんに、地平線に沈む夕焼けを漁船に乗って見に行った時の写真。この景色を見て、この島に惚れた。(この写真に写ってるのは海士じゃないかもしれないんやけど。笑)磯の香りがそこまで好きじゃなかったのに、この1時間で大好きになった。感動は人の好みまでをガラッと変える力を持っている。この日は確か海士に行って3日目か4日目だったはず。海士の魅力に憑かれるまで、そんなに時間はかからなかった。

 

 

去年も遊びで訪れた、西ノ島町。ここは摩天崖という崖が本当にかっこいい。

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そこらへんに牛と馬がいて、人間には慣れているものの愛想は全くない。あの貫禄をもってすれば、牛と馬にこんにちは~と声をかけながら崖を見に行き、帰りがけにお疲れ様でーすと言いたくなってしまうのはきっと私だけではないはず。どっしり感が六甲山牧場の馬たちの屁でもない。

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そして今回初上陸の、知夫村。人間よりたぬきの数の方が一桁多いそうだが、たぬきのたの字も見かけなかった。西ノ島の牛さん馬さんと比べてシャイなのかもしれない。ここにはずっと来たかった赤壁がある。言ったら活断層なのだが、その迫力は言葉にならない。

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瀬戸内海、太平洋沿岸では見ることができないこの荒さ。かっこいいの一言に尽きる。生まれて初めて断層を見て鳥肌が立った。大地に叫ばれているような気がして、人間は地球には勝てないと思った。所詮iPhoneで撮った写真では伝えることができないので、ぜひ一人でも多くの人に生で見てほしい。

 

そして、最初に載せた写真が隠岐の島町にある乳杉。3000年も前から隠岐で時代の変遷を眺めてきた。隠岐の島町隠岐四島の中で一番大きな島で、隠岐の中では一番「都会」である。他三島が島前と呼ばれているのに対し、この島一つで島後と呼ばれている。その分魅力もたくさんで、正直魅力を知り切れなかった感は残っている。まあまた訪れるよい口実ということにしておこう。ポジティブ。

 

この文章を書きながら気づいた。今の私の状態は隠岐ロスというよりも、完全に隠岐の魅力にとりつかれている。今はお金も仕事も能力もないから良いものの、もしそれらを少しでも持っていたら、荷造りもそこそこにふらっとフェリーに乗り込んでいるだろう。いつか自分の人生の線上に、隠岐があればいいのになぁと思っている。

#3

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「書きたい」の欲を満たすために開設したこのブログ(#1参照)やけど、「書きたい」と強く思うトピックを持っているわけではないのが正直なところ。笑 恐ろしいほどの矛盾を発言してるのは承知の上やけど、これには理由がある。(なんか正当化してる感満載)日中「あー、このアイデアいい」って思った事を、夜中PCでポチポチするほどの気力が毎日あるわけじゃないってのが一つ。もう一つは、このブログでそこまで真剣に「書かなきゃ!!」って思ってないからなんやと思う。まあでもさ、他人から求められてるにせよ自分で勝手に言うてるだけにせよ、have toが溢れてるこの世の中に生きてるんやし、自分で勝手に作った空間くらい自由に生きててもいいよね。笑 私は好きな音楽を聴きながら、文字を書くのが好き。きっと、それでいいはず。

 

ーーー

 

こないだバイト中、店長が店内の木製のストッカーにネジでアクリル製の棚を留め付けようと頑張っていた。店のストッカーは木製のくせにものすごく堅くて、店にあった安っぽいドライバーなんかじゃ穴も開かなかった。店長より10歳年下の私も加勢して2人で頑張ったけど、びくともしなかった。私達2人(店長は今年5月入店、私は今年3月入店)がこの店に来る前から備え付けられているアクリル棚たちは、一体どうやって留められたんだろうか。これ手作業で付けるのは無理ですよ、電動ドリルとか使ったんじゃないですか。そうだろうね、これ手で付けるなんて常人じゃないもん。こんな会話をしていたところに、休憩からパートのTさんが帰ってきた。

 

店長「ねぇTさん、前にあの棚付けた時、どうやってつけたんですか?店の管理担当とかに頼んだんですよね?」

Tさん「あ、あれ私が付けました」

店・私「...は?手作業で?」

Tさん「ええ。笑 あれ堅いでしょ~、後でやっときますよ~」

 

そんなはずはない。そんな笑いながら軽くやっときますよ~とかいうレベルの堅さじゃなかった。私と店長、女といえども大人2人で全力で頑張って30分粘ってやっと、ちっこい穴1つ開けられたっていうのに。目の前に非常人が立っているっていうのか。さすがに学生バイトの私が、じゃあTさんやっといてくださいと放るわけにもいかなかったし、手伝う事にした。大変だろうから手伝おうという気ももちろんあったけど、Tさんの馬力を拝見しようっていう怖いもの見たさの方が勝っていたかもしれない。笑

 

結果、2人で必死こいて1つの穴しか開けられなかった30分で、Tさんは顔色一つ変えずに穴を4つ開け、アクリル棚は無事設置された。信じられなかった。「この人何者やねん、絶対人間じゃない、やばい。」それしか浮かばなかった。でもひとしきりその文言を頭の中で泳がせた後、「Tさんにできるんだから、私にも頑張りゃできんじゃないか」という考えが浮上してきた。今書きながら、過去の私のアホさ加減にドン引いている。数分前では否定していた事を、今度は肯定しているというこの状況。でも人間おかしなもので、他人がスルスルできた例を目の前で目撃した後だからか、自分にもそれができる想像ができた。「できない、絶対無理」と散々わめいていた自分は、気づかないうちに地球の裏側に出かけてしまった。

 

Tさんは上がりの時間を迎え、アクリル棚1つを設置して帰宅した。残る棚はあと3つ。もう店長が諦めモードに入っていたのに対し、私にはやる気しかなかった。「店長、私やっときますよ。」とドヤ顔する私を見るその目が「は?」と言っていたのが面白くてたまらなかった。私にはできる気しかしなかった。自分の手じゃ30分(しかも店長と共に)かかってちっこい穴1つしか開けられなかったくせに。成功例を「見た」だけだろお前。そんなツッコミなんて受け付けてなかった。

 

意気揚々と、ちゃっちい(たぶん関西弁やんね、安っぽいって意味です)ドライバーセットとアクリル棚を担いで、ものの1時間弱で3つとも付け終わった私はもう楽しくて嬉しくてたまらなかった。手にマメは2つできて、実際今も痛むけど、全然気にならなかった。私もTさんと同じく、非常人になったのだ。2人でやった時は何の助けにもならんかった私を、店長は驚きの目で見るばかりで、やったらあの時本気出せよとも言わず、ただただ「ありがとう、助かったよ!」と何度も言ってくれた。きっと彼女はいい母親になると思う。(何目線やねんな、調子乗るなって話)

 

結論、人は他人の成功例を自分の目で見て、それを自分の姿に置き換えても想像できたら、割とうまくいくのではないかということを思いついた。すこぶる調子に乗った発言ではあるけれども。あながち間違いではない気がしている。そしてこの場合、慢心という要素が加わった瞬間、人は途端にひっくり返る。と思っている。

 

わけが分からないくらい堅すぎる木製ストッカーに、ちゃっちいドライバーセットでアクリル棚を付けるという行為で得たアイデア。忘れないように、ここに書いておきたかった。

 

 

ーーー

こういう事象を書くときはなぜか関西弁が抜ける。というか、関西弁だとしっくりこない。いったん思いつくままに書いて、後で関西弁に編集したけど違和感しか覚えなかった。あえて残してるところもあるけど。

 

 

2か月前くらいに食べた桃、ものすごく美味しくて忘れられないから写真に残しときました。桃を育ててくれた農家の方、お名前わかりませんがありがとうございました。